坂上 田村麻呂

坂上 田村麻呂 坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。 父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、 薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。 現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。 上記が歴史書に書かれている彼の経歴である。 この人物は苅田麻呂の子というのは間違いないが、百済系という説もある。 藤原氏に命令され、征東将軍となって東北の我ら日本原住民の御祖先様をば討った相手なのである。 それなのに、今では庶民が、知らずに五月人形の鍾馗さまとして祀っている。 青森のねぶた祭りでは、地元の企業がスポンサーになって田村麻呂の巨大な提灯が練り歩いている。 こうした歴史の真実をを知らずに地元の人たちは「ねぶた(根蓋)祭」として盛大に祭っている。 しかし彼は、原住民を殺し、「根(死)の国へ行け」とばかり穴を掘って埋め、その上に蓋をして、殺した家族に踏み固めさせるという残酷な仕打ちをさせている。 だから現在のねぶた踊りも、「はねこ」という踊り手たちは、遠慮するような、躊躇するような踊りになっている。 …

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豊臣秀吉は「サル」ではない

豊臣秀吉は猿でない 「うん、うぬは猿そっくりじゃな。まこと珍妙なつらじゃ。よし、今日よりは、猿めとよんでつかわそうかい」 「はい、はい、召し使うてさえ頂けるものなら、てまえは猿でもなんでも、結構にござります」と信長に奉公の初めから、いと気軽に、 「さるめ、さるめ」といわれた事に、あらゆる書にも『太閤記』にもされている。しかし、 『両朝平壌録』という朝鮮の役のときに向こうから交渉にきた者の、帰国後の見聞録ともいうべき報告書には、 「つらつら関白秀吉を、間近かに観察するに、左頬に黒あざのごとき汚点(しみ)が数点浮きでており、口が尖っていて、その顔つきは一見、犬に相似していた」とでている。  日本の講談では、猿だとか猿面冠者とあるが、実際に面会した人間は、はっきりと秀吉を、「犬に似ている」といい切っているのである。  はたして、どちらが本当だろうか?  また秀吉を、土百姓の子とか、鉄砲足軽の子であったなどというが、その頃、日本へ宣教師としてきていたシュタインシェンの、『キリシタン大名』には「樵夫」とあるし、 『日本西教史』にも「秀吉は若年の頃は木こり、たきつけ火付け用に柴の束を担ぎて、売りひさぎ歩きし」とでている。また、 「講談」では「相当豪かった丹羽長秀や柴田勝家にあやかろうと、羽柴と姓をつけた」というが、『古語辞典』では、 「はしば=枯柴の尖端で点火用にした端柴のこと。形状より羽柴ともいう」とあるが、どちらが本当だろうか‥‥この方が論理的だと思われるが、 これ…

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イロハ歌留多から見える日本史の真実 『五木ひろしが売れた訳』 『五木の子守歌』の謎 『芋の煮えたの御存じなく』

イロハ歌留多から見える日本史の真実 『鰯の頭も信心柄(からではなく、がらが正しい)』 『五木ひろしが売れた訳』 『五木の子守歌』の謎 芋の煮えたの・・・・・この唄は、 八代将軍吉宗が、芋学者と呼ばれる青木昆陽に命じ、小石川薬園で栽培した種芋を関八州に栽培させ、ついで東北から西国ににも広めさせた。  処が享保十七年夏から、関西から九州へかけて、イナゴの大群が発生して、収穫前の稲穂を殆んど食い荒し大凶作となったことがあった。 だから、江戸表にも西国より回送米は送られてこず、米価は、うなぎ昇りになって、町民は一升買いしたくも、辛うじて十分の一の一合しか人手できぬ有様となった。 「唐芋」つまりカライモと呼ばれた今の薩摩芋は、稲と違って地下根ゆえ、イナゴに地上の葉は食われても助かったので、どっと江戸へも出荷されてきた。 処が、まだ十八世紀には「焼芋」は考案されていなくて、米の購えぬ庶民は、芋を蒸かすことも知らず、これを鍋で煮て食事にした。  つまり大身の侍とか、オカミ御用達の政商や町役、町おとなの表通りに住む富裕な者たちはコメが買えて芋など食さなかったが、 貧乏人共は仕方なく食した。だから自分たちは「好んで食うわけではないが、これしか口に入れて腹のたしにするものはない」と言うので、 自嘲気味に米飯をくえる人間へ負け惜しみに口にしたのがこの唄なのである。 もちろん侍といっても下級武士は町人と同じように貧乏だったから芋を食した。だから、普段は侍だというだ…

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イロハ歌留多から見える「日本史」の真実 のれんにもたれる 野火山火、三べん廻って見て廻れ

イロハ歌留多から見える「日本史」の真実 『のれんにもたれる』                                              関西の商家から出たと想われる『のれんにもたれる』という唄が在る。 関西も商家が多く、その商家では、店の暖簾を守ることが、御店にとっては全生命であり、のれんを下ろすといえば倒産つまり潰れたことになるのである。 これはヤクザの代紋と一緒で、店主はじめ末の丁稚小僧に至るまで心身に沁みついた資質なのである。                                  現代なら、うちの会社が倒産したのは、経常者が悪かったのだとする者さえもいる。 しか昔の大阪では、のれんを下した店の旧奉公人には、げんが悪いというか再就職先はなかったのである。 手代でも丁稚の一人でも、確り気張っていたら、お店が潰れるわけはないと連帯責任制だった。 だから、店員が新町あたりの安女郎を、我慢できずに買いに行くのを見つがったりすると、「御店の、のれんに傷がつく」と暇を出されても仕方がなかったくらいである。 つまり暖簾は店にとっては、単なる布きれではなくて「看板」だったのである。だから、跡取り息子でもその看板により掛るみたいに甘えて、 おたなの信用で、つけ遊びをするような者は商家の跡取りには失格とされた。 こんなのに店を継がせることは出来ないので、勘当して番頭か手代の中から気の利いたものを選んで、娘の連れ合いに身代をつがせねばならぬ。 ま…

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真説  弥次喜多道中記 弥次喜多の二人は女遊びはしなかった

 真説  弥次喜多道中記 弥次喜多の二人は女遊びはしなかった 北条と書いてキタジョウと読ませる苗字は多い。 それ以外でもキタヤマ、キタガワと北を、「キタ」と読ませるしか無いような姓ばか りで、北をホと発音するのはこの家名しかない。 なにしろ唐の國の人間が持ち込んできたのに、故意に「漢」の時代に到来したものの如く錯覚を与えるような「漢字」という名称になっている。 それで押しつけられるように当用され出した用語で、今も日本列島は完全に支配されてしまっているが、何しろ逆説的にいっても諺にさえ、 「一見は百聞にしかず」というがごとくで、目で見る視覚の漢字が、耳から入って くる発音の百倍の威力がある。 焔のホが北条のホであって、拝火教を意味するのだと判っても「北」をキタと読んでしまうと、北帰行や北の宿のキタになり、 白山信仰の騎馬民族系の事に混同されてしまうのである。 明治になって義務教育の世の中になり否応なしに、大陸渡来の象形文字を押しつけ られるまでは、我々の先祖は極端に漢字を嫌ったものである。 その証拠に「絵暦」と呼ぶカレンダーの数字さえ絵でのみこめるようなのが、今も東北に残っている。つまり、御先祖は江戸時代になってさえ、視覚ではなく聴覚で全てを判断したのである。 十返舎一九の「弥次喜多道中記」を例に取ろう。 弥次郎兵衛と喜多八の二人が江戸を抜け出して京への旅行をする物語だが、血気ざかりでそそっかしい二人なのに、夜毎泊まる旅籠には当時…

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